| 稲葉根王子~滝尻王子(14.3km)このガイドは畑山橋を通るコースですが、一ノ瀬橋コースでは12.3km程度です |
中世の上皇の御幸には、禊の意味を込めて岩田川(富田川)を渡り返しながら滝尻に至ったこのルートは近世になると、近くて、安全な潮見峠越しに移行し、廃絶したと見られています。
この為、この間の殆どは、一本の道というルートではなく、岩田川の両岸の帯状の範囲の中を御幸の列が進んだと考えるのが自然ではないでしょうか。
現在、このルートはのごし橋から北郡集落の間に山道があるだけで、それ以外のルートはすべて舗装された道を歩く事になります。
しかし、藤原定家の後鳥羽院熊野御幸記(熊野道之間愚記)の一文には
(前略)十三日 天晴
(中略)次に稲葉根王子(此の王子は五躰王子に准じて毎事過差と云々、御幸之儀は五躰王子に同じと云々)次に晝養宿所にいる、馬は此所より停めて師に預け置、是より歩指して、石田河を渡り、先ず一ノ瀬王子に参り、之を渡り次にアイカ王子に参る。河の間の紅葉の淺深の影波に映じ、景風殊勝なり(河の深き所は股に及ぶも袴をかかげずと云々)次に崔嵬の嶮岨を昇り、瀧尻宿所に入る(後略)
に記されている「崔嵬の嶮岨を昇り、瀧尻宿所に入る」道が未だに不明なのは残念なのですが… |
| スポット名 |
ガイド |
付属施設 |
起点よりの距離 |
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| 稲葉根王子 |
この王子は熊野九十九王子の中で、特に五体王子といわれ、早くから史料に表れます。
藤原宗忠の中右記(1109年10月記)には
廿二日、天晴、(中略)次越其山、於新王子社奉幣、於大岳坂上祓、下従坂、参伊奈波禰王子社奉幣、渡小河、(後略)
とあり、伊奈波禰王子稲葉根王子)に参った事が記されています。
しかし、その後に記述の”渡小河、”がどの川を指しているのでしょうか?(翌日の23日には石田川(現在の富田川)と記されているのでこの小河は別の河だと思われます)
ひょっとすると、稲葉根王子は現在の場所ではなかったのかもしれません(私見ですが、注1)。
後鳥羽院の御幸の頃にはこの周辺に岩田御所が有ったと見られていますが、場所は明らかでは有りません。
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簡易トイレ 。
河川敷側に駐車場が有りますが開いていない事も。
近くには田辺駅からのバス停有り。 |
起点 |
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| 畑山橋 |
一ノ瀬橋を渡らずに興禅寺(だるま寺)経由で一ノ瀬王子に向かう時は、富田川(旧岩田川)を少し下ったところに有るこの潜水橋で対岸に渡ります。
紀南では珍しい潜水橋(沈下橋)ですが、増水時は橋の上を水が越しますので通行不能になります。 |
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0.3km |
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富田川と興禅寺(だるま寺) |
現在の富田川の下流域は、古くには岩田川(石田川)と呼ばれ、上皇、女院の御幸の時代には重要な水垢離の川でした。渡河する事が禊と考えられ、袴の裾を上げずに渡り返しながら滝尻に向かいました。
1109年の藤原宗忠の中右記には
廿三日、「申午」天晴、「此暁不浴水、」未明出宿所、渡石田川十九度、
と記されており、実数であれば滝尻まで、実に19度も渡った事になります。
近世にはショートカットコースの潮見峠越えに移り、このルートは使われなくなったと考えられています。
途中の山手には日本一のダルマ坐像と水琴窟で有名な興禅寺(だるま寺)が有ります。 |
興禅寺にはトイレが有ります。 |
興禅寺迄2.8km |
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| 一ノ瀬王子 |
稲葉根王子は富田川の右岸(注1)に有りましたが、この一ノ瀬王子は左岸に位置します。
藤原宗忠の中右記(1109年記)には見えていませんが、後鳥羽院熊野御幸記(藤原定家1201年記)には記録があり、この間に出来たものと思われます。
江戸期の1650年代には荒廃し忘れられていたようですが、その後1661年、紀州藩の熊野街道の整備の折に、再建されたと言われます。
しかし、明治末期の神社合祀令により対岸の春日神社に合祀されて、再びもとの竹薮に戻っていたのを近年(昭和44年)、現在のように整備されました。
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30~40人ならお弁当を広げられます。 |
4.3km |
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加茂橋と
鮎川の町並み |
今までは上富田町を歩いてきましたが、この当り(撮影地点)で田辺市(旧大塔村)になります。
前方に見える加茂橋は手前が田辺市、向こう側が上富田町となり、川の真ん中を境界が走っています。
熊野古道公式ガイドではこの橋を渡り、国道311号を越えて、高台を歩き、再び田辺市に入り、鮎川王子へ至るルートを推奨しています。 |
町並みの中には小型のスーパーや |
加茂橋迄
5.3km |
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| 鮎川王子と鮎川王子社 |
一ノ瀬王子は左岸にありましたが、鮎川王子は鮎川新橋のたもとの右岸にあります。
一ノ瀬王子と同じく、中右記には記されていませんが、熊野御幸記にみえているのは同じ様な成立なのかもしれません。
明治7年にこの王子社は対岸の住吉神社に合祀されており、社殿は今も住吉社に祀られています(画像)。
往時はこの碑の付近に王子社があったと思われていますが、明治22年の洪水で旧社地の一部が流失しており、その後、道路の開通に伴い削り取られて、古の面影を残す部分がなくなりました。 |
トイレ
休憩所
田辺駅~本宮間のバス停 |
鮎川王子迄
6.6km |
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| 住吉神社 |
カーソルを置く前の画像は、鮎川新橋のたもとの鮎川王子から対岸の少し上手を見たものです。神奈備山と呼ぶに相応しい山の麓に住吉神社が鎮座しています。
社叢は様々な巨樹により形成されており、オガタマノキの巨木は県天然記念物。暖地性の常緑樹が主で、クスノキ、イチイガシ、ホルトノキ、ツブラジイ、スダジイ、クロガネモチ、イヌマキなど、近辺では見られない規模の社叢を誇っています。
社伝によると宝永年間(1704~1711)の勧請といわれ、明治の神社合祀時には近隣の小社を多数合祀しており、今も鮎川の産土神として崇められています。 |
トイレ
広い境内が有ります |
7.3km |
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| 御所平 |
御所平は熊野詣の道筋にあり後白河法皇の頓宮(仮の御所)があった場所といわれています。
後白河上皇は生涯34度の熊野参詣を行ったと見られており、上皇、法皇の参詣では最も多い記録を持っています」。
また、この場所には穴の開いた石をお供えすると霊験あらかたと言われるお薬師さんが祀られています。
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8.3km |
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| 山中の山道へ |
御所平から800m程進むと、車道が途切れ山道に変わります。
川沿いの古道は、蕨尾からは山越えで北郡の集落に至ります。 |
途中にベンチが数脚 |
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| 庚申塔と道祖神 |
庚申塔とは中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔の事で、庚申講を3年18回続けた記念に建立された事が多いといわれ、全国的に江戸時代、隆盛を極めましたが、明治政府には迷信と位置づけられ姿を消したところが多くなっています。
道祖神は路傍(道)の神で、やはり中国伝来とされています。
どちらも良く似た場所に祀られており、共に猿田彦神と習合している場合が多いことから、現在は同じ場所に祀られる事が多くなっています。
ここも例に漏れず、川沿いの山道にひっそりと、しかし、綺麗に祀られています。
なおこの道祖神は陰陽合体の形をしており、男根道祖神が多い中、比較的珍しいものです。 |
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8.8km |
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| 新旧2体の庚申塔と徳本名号碑 |
蕨尾から山を登り、北郡(ほくそぎ)の集落が見えてくると、2体の庚申塔が右側に祀られています。
通常、庚申塔は集落の入口と出口に建てられており、これは北郡集落の庚申講に由来するものと思われます。
この先には徳本上人の名号碑が有ります。 |
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10.0km |
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| 北郡集落 |
このルートは世界遺産の登録資産には指定されていませんので、滝尻からの古道のように至れり尽くせりの道標は整備されていませんが、写真のような案内板が要所要所に設けられていますので迷う事はありません。
ここからは、カーソルを置いた画像に見える吊り橋を渡り、清姫の墓所に至ります。 |
左岸の吊橋近くにバス停 |
バス停迄
11.2km |
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| 清姫の墓所 |
歌舞伎で「京鹿子娘道成寺」、能では「道成寺」、 長唄では「紀州道成寺」、さらには義太夫節では「日高川」など、古典芸能では幾多のジャンルにおいて題材とされてきた、安珍・清姫伝説の、清姫が生まれ育ったと言われているのがここ、真砂の里です。
ストーリー自体は諸説あり、伝承の域を出ませんが、熊野を考察する上でも興味深いものが有ります。(注3)
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隣の清姫茶屋では食事・喫茶が摂れます。
近くにバス停 |
12.0km |
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| 滝尻王子 |
1109年に藤原の宗忠が記した「始めて御山の内に入る」所がここ滝尻王子です。
王子の中でも最も社格が高いとされる五体王子の一つで、「北方の王者」と呼ばれた藤原秀衡が奉納したといわれる「黒漆小太刀」が国の重文として現存します。
古道はここから800mにわたり「己が手を立つるが如し」の坂を登ります。
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「熊野古道館」という町営の案内所が対岸に有ります。
王子の傍には水本商店と滝尻茶屋という土産物店有り。
トイレ(2箇所)。
バス停。 |
14.3km |
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